文学散歩「岡本かの子をめぐる文学散歩」シリーズの第2回目です。
二子二丁目公園から程近く、光明寺というお寺があります。
~大貫雪之助の墓~
第一高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)とともに与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新詩社」に参加し、東京帝国大学英文科在学中、第2次「新思潮」が主催する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(1912)年11月2日丹毒の病で急逝しました。
かの子の兄、雪之助は若くして亡くなったのですね。彼は大学在学中に「大貫晶川(しょうせん)」と号し、島崎藤村門下の一人として将来を期待された存在でした。
かの子はその兄雪之助や谷崎潤一郎の影響を受け、文学少女として成長したといわれています。
その後与謝野晶子に師事し、「明星」「スバル」誌で歌人として認められるようになりました。
そのまま、大山街道を5分ほど歩いていきます。
向かう先は高津図書館、のその手前。
街道沿いに「溝の口緑地」と呼ばれる緑あふれる場所があり、
そこを通り過ぎたところに高津図書館があります。
その溝の口緑地に、岡本かの子の歌碑があります。
岡本かの子は豊満な耽美妖艶な作風が特徴ですが、いまとなってはこの歌碑に何が書かれているかを紐解くのは難しいところ。とても気になります。
説明看板を見てみましょう。
この歌碑は川崎高津ロータリークラブが、平成2年クラブ創立5周年を記念して、この地で幼少時代を過ごした岡本かの子の業績をたたえるため、川崎市に寄贈されたものです。
かの子は豪商・大貫家の長女として東京都赤坂区の同家別邸に生まれました。大貫家は橘花郡高津村二子(現在の高津区)に数百年続いており、江戸時代には苗字帯刀を許されるほどの有力な家柄でした。かの子も5歳のときに赤坂よりこの地へ移り、幼少時代を過ごしました。
この地を愛したかの子は、作歌活動を通じ、作品にも郷土に寄せる思いを綴っております。
この思いは今も郷土の人々の共感するところであります。この歌碑は彼女の思いをこの機会に、改めて高津区民の人々に広く伝え、地域文化の向上に寄与するために建立されたものであります。
かの子の作歌活動は旺盛でありました。大正元年には最初の歌集、第1歌集「かろきねたみ」が刊行され、大正7年に第2歌集「愛のなやみ」が刊行されました。この歌碑の歌詞は大正14年に刊行された、第3歌集「浴身」における歌題「桜」138首の中から選ばれて、彼女の筆跡を写し刻んで歌碑にしたものであります。撰者は夫・岡本一平との長男であり、日本を代表する前衛画家でもある岡本太郎であります。歌詞と共にかの子の筆跡も味わっていただければと思います。
岡本かの子文学散歩ということでスタートしましたが、やはり目立つ存在は岡本太郎。
かの子の業績を再確認しながら、太郎とのつながりを感じたりできるので、文学散歩は一層興味深いものになりました。
旅の終わりは水分補給。特に青汁が飲みたかったわけではありませんが、ふとポチ。
自販機の中では贅沢な200円のジュースです。
暑かったので一気に飲み干しました。
岡本太郎のモニュメントを見て、大貫家跡の公園で一息、大貫家の菩提寺に寄って、溝の口緑地でかの子に思いを馳せました。
散歩シリーズは続きます。中原エリアにはこんな有名な土地がある!なんて話をお持ちの方は是非編集部にアクセスしてくださいね。
ではこのへんで!