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再録:「畑のおじさんが書いた郷土史30年」 第1回・小田中の地名について

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今回から、内藤 松雄さんのお父様であられる内藤 直作さんが長年したためておられた手記をまとめた 『畑のおじさんが書いた郷土史30年の文集まとめて』 冊子から、少しずつご紹介していきます。内藤 直作さんは昭和5年7月30日のお生まれで、川崎市文化協会や教育委員会、農業協同組合連合会などから実に多数の感謝状や賞を 授与されていらっしゃいました。文集としてまとめられた内藤さんの手記には、町の歴史や神社や建造物について、農業のこと、お囃子などの地域芸能に至るまで、今となっては非常に貴重な記録が丁寧につづられています。この貴重な記録をぜひ多くの方にこれからも継いでいっていただきたいという編集部の想いに、息子さんである内藤 松雄さんにご了承をいただき、ご紹介する運びとなりました。(photo by jenny downing)

なお、文章の表記については原文を尊重しております。

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小田中の地名について

区内の宮内の常楽寺に関係ある文献で、宮内庁書陵部蔵の 「武蔵稲毛本荘検注目録」 元治元年(一一五九・平安朝中期)御検注定に小田中郷と言う地名が最初に出て来ました。

筆者が昭和五十年(一九七五)頃、多磨文化懇話会の春日神社と常楽寺(まんが寺)の歴史探訪に訪れたとき、健在であったご住職の土岐秀宥師より、襖絵の著名な漫画家による作品を拝見させて頂き、その時代とか政治を風刺した滑稽な襖絵の上段吊り壁(普通ならば欄間のあるところ)の処に貼られた当寺に伝承される子文書の拡大コピーの中に、千有余年前の地名呼称すなわち坂戸郷・井田郷と共に古田中郷もありました。現在ではその場所は吊り壁となり漫画家の愉快な漫画が描かれていて、今は個人となられた土岐秀宥師と、それを証明する古文書も不明で、その頃より「おだなか」ではなく「こだなか」と呼ばれていました。

また昭和五十一年(一九七六)発行の「春日山。医王院常楽寺、歴史と文化財」の本には「古田中」の文字は一行たりと無く、地名が小田中となって居り、ご住職は土岐秀宥師のご他界と併せてその古文書の存在が不明なのは、実に残念に思う次第であります。

 

小田中にいつ頃から人々が住みついたか。

徳川幕府が二十年の歳月を費やし、文政十一年(一八二八)に完成させた「新編武蔵風土記稿」に鎌倉時代初期(一一九〇年代)、菅(現多摩区)の小沢城主であった稲毛三郎重成(源頼朝に近侍し、数々の武功を収め、頼朝は彼を重んじ、その妻に北条政子の妹を嫁がせている)の殿屋敷が下小田中村の中央にあったと記述されています。次に唯一の古文書として永正十一年(一五一四・室町時代)内藤家の元祖。内藤内匠之助(武蔵国世田谷城主・吉良左兵衛佐頼康の家臣、内藤豊前の弟)が吉良領である下小田中に移り来て、内藤家を創始、開いたと云われています。KIMG1012

一方、内藤内匠之助は甲斐の国より着て内匠之助宅に止宿した天応高順和尚を迎え、安楽寺を開基しています。この高順和尚、甲斐武田方であり数名の寺守も同伴させています。それは平間の加藤氏で(現中原区上平間交差点の角にある清浄庵は向富山安楽寺の末寺)下小田中の平野氏と原田氏も、甲斐武田勢の没落後帰農し寺守りとして残っております。

また、これを前後するであろうと思われるのに下小田中に土着した猪俣弥左ェ門・漆原……・原田……・森……・野口……・原……・加えて内藤が下小田中の七株と称せられていて、移り住んでいる人々より大株であったと思われます。然しこの七株の内、連綿と続くのは内藤氏(当代十九代目・当主内藤博)であり、他は家督が途絶えていたり、何軒かは名称すらありません。また相前後して橘丘陵より下小田中に移り住んだ朝比奈もありますが、そのルーツは探すすべを知りません。

 

続く

 

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