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再録:「畑のおじさんが書いた郷土史30年」 第2回・小田中のパンジー、デージー

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内藤 松雄さんのお父様であられる内藤 直作さんが長年したためておられた手記をまとめた 『畑のおじさんが書いた郷土史30年の文集まとめて』 冊子から、少しずつご紹介していきます。内藤 直作さんは昭和5年7月30日のお生まれで、川崎市文化協会や教育委員会、農業協同組合連合会などから実に多数の感謝状や賞を 授与されていらっしゃいました。文集としてまとめられた内藤さんの手記には、町の歴史や神社や建造物について、農業のこと、お囃子などの地域芸能に至るまで、今となっては非常に貴重な記録が丁寧につづられています。この貴重な記録をぜひ多くの方にこれからも継いでいっていただきたいという編集部の想いに、息子さんである内藤 松雄さんにご了承をいただき、ご紹介する運びとなりました。(画像はすべてイメージです)

なお、文章の表記については原文を尊重しております。

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「かながわ・名産百選」 小田中のパンジー、デージーの紹介

武蔵中原駅の南側一体を中心にして、住宅の中に点在する農地の中に、晩秋から春にかけて霜除けのヨシズの下に栽培されるパンジーやデージーが、そこかしこに垣間見ることが出来る。都市化した環境の中で、未だ健在の農家が地形や土壌形態を巧みに利用して、花卉栽培に励み高度な経営をしているのが、通称 「こだなか」 と呼ばれる中原区下小田中である。この小田中が、昨年九月十七日に神奈川県より発表された県下に名だたる特産で、希少的価値となった地場産業を奨励すべく、「かながわ・名産百選」 として、四十六品目、百点が指定を受け、これに仲間入れ出来たのである。そこですでに市政だより2月号で、或いは県だより3月号でイラスト入りで百選の仲間を紹介されているが、筆者の私がこの花の生産者であるので、改めて紹介したい。

■土地改良

小田中の花を紹介する前に、この地区の地形から説明しよう。かつては水田が主体の稲毛米の穀倉地帯であり、多摩川の流れ淀んだ極めて粘質の壌土地帯で、古老の説にも 「難儀の稲毛に可愛い娘をやるな」 と言うような風評まで存在したもので、稲毛の小田中が、如何に水田耕作の肉体的労働、耕地面積の広い難渋した水利の物語りが、近郷近在にこだましていたかが伺い知ることが出来る。ea4829c10754326b483f1de6ccb190ec_s

然し歴史は一変して、昭和二十九年に始まった土地改良事業によって、過去の不便を呈した水利も、天秤棒に頼った畦道も立派に緩和改良され、荒木田と闘った婦女子も機械類によって開放、加えて、橘以北の丘陵地帯や都下品川、世田谷、大田区方面の宅地造成、開発に伴う(ローム層)の出土と、これが安価で恰好の埋立や客土となり、自然に柔らかい土壌に変貌したのである。時代の推移の中で稲作が減り、野菜から花に転換する者が増え、後に南関東で有数の花の産地になったのも、自然の土壌改良が発展の要因となったのは言うまでもない。と同時に、約十年に及んだ土地改良事業の影響で、農地売買や都市化が停滞し、他地区に見られない農業意欲が盛り上がったとも思われる。

■花卉栽培の発祥

花に関する古い記録、文献がないのが残念だが、かすかに残る資料の中から、花の生産がこの地に発祥したのは大正年代であり、ごく数名が夏菊や秋菊を主体に、トラノオ、のこぎり草、なでしこ、多年草のシャクヤク、その他の枝物を栽培し、市場出荷でなく生産者のほとんどが市内に於ける花の先進地、市の坪などの生産下請地であった。つまり市場出荷の権利のない人達ばかりなので、いずれも畑一枚何円という直売方法をとったのである。この方法で昭和年代に入るが馬絹の吉田忠右ヱ門氏で年季を勤めた新城の出竹正一氏は、馬絹組合に加盟し、蒲田地区に世話になった布施長次氏などは蒲田花卉生産組合員になるなど、独立独歩の道を歩んだ者はなく、他地区に依存した形態で組合活動を続けていた。いわゆる現在の自由経済と違って、花という特種な産物のため消費面も限定されていて、おのずと生産者も制約を受けたのである。然し、こうした制度の時代でも小田中に於ける農業意欲は素晴らしく、他組合の脅威であったらしい。昭和八年に記された蒲田組合の資料によると、副組合長に田辺市郎氏、評議員に内藤き義氏、鹿島儀左ヱ門氏となっている。

■切花から地掘り花壇苗に移行

多摩川流域に広まった桃の栽培と時を同じくして、小田中も昭和初期より次第に花卉栽培者も増え、栽培種目や品種もそれぞれ多岐になってきて、フレームに依る半促成の水仙、ユリの球根類から枝物へ、昭和十五年にはガラス温室が初めて登場し、も早、他組合に加盟するまでもなく昭和十七年七月、待望の小田中花卉生産組合の誕生を見るに至ったのである。このとき組合員は三十名、組合長に田辺亘氏が就任してしばらく独立した組合活動に入るが、これも束の間の出来事で戦争のため中断して、戦後の復活となるが、このときは組合員が激減していて再出発は十二名であった。

昭和二十四年一月の新年会の模様が組合記録にあり、当時のカストリで魚持参で料亭に行った話が記されていて、実に懐かしい。小田中にパンジーが導入された頃も丁度この昭和二十四年であって、地元の花の先駆者、内藤信義氏と田中信行氏が東京の江戸川方面で見聞し、この小田中へ導入したのである。当初の頃は種子の購入と言い、種子の播き方と言い、初めての体験であって相当苦労したらしい。想い出話は過ぎにしエピソードとして楽しく語り伝えられている。勿論、市場も現在の近くの市場と違って、遠く神田、新宿、江東区駒形の東京生花市場に出荷したことを出竹正一氏は語る。栽培者も出発当初九名であって、その中に今は懐かしい布施美代吉氏や立正大学教授の小川一朗先生の親戚である小川光春氏が含まれていて、話は急に和む。この九名にて出発した小田中のパンジー、デージー作りが、組合員の共感を得てたちまち小田中一円に広まり、隣接する井田、高津区坂戸にまで普及し、組合員も上小田中、今井、新城を抱合した広範囲の小田中花卉生産組合となったのである。

 

■花に感謝・花供養塔の建立

かつては他地区の組合で居候として育った小田中の花の栽培者が、やる気十分な農業意欲で遂になし得た全国一(県だより3月号、坂田・タキイ種苗販売実績)の実績を有する組合に成長出来たのも、蔭の原動力となった今は亡き内藤信義氏・田中信行氏の偉大な貢献と歴代組合長に感謝せずにはいられない。昭和五十八年九月、花に感謝し先人の労を讃える花供養塔を地元の全竜寺境内に建立した。この花供養塔は現在宮前区馬絹にもあり、市内に二基ある。

川崎研究 第二十四号(一九八六)より

 

その後の調べで九名のお名前が解りました。

田中信行、内藤信義、森田福松、布施美代吉、小川光春、内藤義夫、布施弘、布施三郎、田中敏雄の皆さんでした。

 

 

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